考えるということ
この春から新たに、自分にある機会を準備してあげようと思っています。
どんな機会かというと、”考える” をたくさんする機会。
今年に入って、自分自身に何度か
「何がしたい?」と
問いかけてみているのだけれど、
繰り返し返ってくるのが、”考えたい” という返答なのです。
そうか、わたしはそんなに考えたいのか。笑
でも、ほんとに。
今年はたくさん考えて、自分の思考を練ってみたいな。
どうしてそんなことを思うのかなぁと、考えてみたときに、
去年から一年間、自分の中で大きく揺らぐことが何度かあったから、ということがひとつあります。
自分が大きく揺らぐときは、結構なピンチでもあるけれど、
裏を返せば、自分の中で確かなものを築き直していくチャンスでもあって、
古きものが破壊されていくプロセスを経て、より根源的な土台を築いていくことができる機会でも、きっとある。
・・・ということも、あるけれど、
それを抜きにしても、きっとわたしは元々、考えることが好き。
ただ。
”好き”というのは時にクセモノで、
過去には、考えへの執着のために、思考の袋小路にはまり込んでしまったり、
考えに取りつかれて、寝ても覚めても考えから離れられなくなったりしたことも、数知れず。
好きな人であるばっかりに、その相手に悩まされてしまう恋、みたいな。笑
そんな長い片思いの(笑)期間を経て、だんだんと
”考える”という行為を、主体的にする感覚が自分の中で出てきたのは、本当に最近で、
ここ数年のこと。
この生きている内に、たくさん考えたいなぁ、と思う。
考えることって、こうして人間として生まれてきたものに与えられた特権でもあるだろうから。
考えること自体を楽しみたいし、
考えからひらけてくるあたらしい景色も、楽しみたい。
考えることというのは、普段誰もが何気なくやっていることだけど、
よく考えると、とても奥深いもの。
理性的な作業でもあるのだけれど
それだけでもなくて
何についてどんな風に考えていくのかといった”考えかた” の方は、
その人の感性にかかっている。
つまり、考えというのは、理性と感性(センス)が融合した先に、成り立っていくもので、
考えを磨いていくためには、考え方のセンスを磨いていく必要が、ある。
そんな風に、考えたり、考えのセンスを磨いていくことができる場に身を置くことを考えると、それだけで、とってもわくわくしています。
さて。
どこに身をおくかというと、以前お世話になった先生がいらっしゃる大学院のゼミです。
共生社会環境論という科目なのですが、
そこで扱っているテーマが、哲学的(根源的)かつ実践的、
そしてグローバルな視点も取り入れていて、
なおかつアウトプットする場が設けられているので、
そこで存分に自分の思考を練ってみたいと思います。
ということで、
今年度は、週に1度、なんちゃって学生になる予定。
明日からさっそく始まります。
ちゃんとついていけるのかしら(笑)。
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